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/ MacUser ROM 45 / MACUSER-ROM-VOL-45-1997-08.ISO.7z / MACUSER-ROM-VOL-45-1997-08.ISO / READER'S GALLERY / READER'S GALLERY97⁄8 / 京都府 吉川敦 / うつつ / うつつ その3 < prev    next >
Text File  |  1997-06-07  |  15KB  |  90 lines

  1.                    ☆         
  2.  
  3. 「知覚の扉」
  4.  これは英国の小説家オルダス・ハックスレーが著述した、自らのメスカリン体験を綴った本の題名だ。メスカリンとは、有史以前よりインディアンが儀式の際に食したといわれるサボテンの主成分を科学的に抽出した幻覚剤である。種類的にはLSD・マジックマッシュルームに似ているものだ。見えないものが見えたり、聞こえないものが聞こえたり、日頃感じるものの固定観念を覆すような感覚に襲われる。一九六○年代、アートやロックやジャズの世界で魔法のドラッグとして流行った。
  5.  オルダス・ハックスレーはこう言っている。
  6.  宇宙に起こっている全てのことは脳の中にある減量バルブを通して濾過された意識内容を、人間の言語として知ることしかできない。時に、これを出し抜く裏街道、バイパスが存在する。これは精神的訓練や催眠、薬物の服用によってのみ開かれる。しかし、まだ宇宙に起こっている全てのことには程遠い。なぜなら、バイパスは減量バルブを消滅させてしまうものではなく、減量バルブは依然として宇宙の意識内容を濾過しつづけているからだ。だが、それでも真実の世界の完全な姿にはより近いものといえる。
  7.  彼は幻覚剤を「知覚の扉」を開くものと考えた。つまり人間は真実を見ているわけではなく、常は「知覚の扉」を閉じている、と。
  8.  人間に見えている現実世界が、本当に宇宙の真実なのか?
  9.  それを信じるも、信じないも、それはあなたの勝手だ。
  10.  
  11.                    ☆          
  12.  
  13.  目覚めると今度はベッドの上。僕は細い金属パイプの簡易ベッドに寝かされている。右足は包帯でぐるぐる。だがモルヒネでも打たれたのかあまりは痛みは感じられない。どちらかというと頭はぼんやりとしている。
  14.  僕ははっきりと目を開け、体を起こそうとした。体は重く、すごくだるい。すぐには起きられない。脱力感に満ち満ちている。左耳から木製のドアを何度もノックするような音が近付いてきた。パンプスの音だ。心配そうな顔の若い女が僕の顔を覗き込む。真白な服に真白な帽子。看護婦 ・・・・・・ 僕の心に安堵感が広がった。僕の肩を優しく押さえ付け、マリア様のような微笑みで看護婦はシーツを掛けてくれた。ちょっと太めでグラマーでセクシーなマリア様。僕は素直に従う。看護婦は深森に湧き出る泉のような声で、先生をお呼びします、と僕の傍らを離れた。
  15.  よく見渡せば、ここはサーカス小屋。病院じゃない。中央に白と赤と青で塗られた円形の舞台では一匹の象が玉乗りをしている。天井は高く、ドーム状だ。薄日が射し込んでいる。空中ブランコが太い柱の両端にひとつずつと綱渡りのワイヤーが一本、真冬の電線のようにピンと張っていた。ベッドは僕のと同じものがいっぱい。本来は客席である段々畑に所狭しと並べられている。ベッドは満員だ。僕と同じような負傷者がシーツにくるまっている。
  16.  悪夢はまだ続いているのか?僕は微かな希望を持ちつつも、ぼんやりとした頭でそう思った。
  17.  看護婦と一緒にやってきたのは医者ではなかった。白衣も聴診器も注射器も持っていず、消毒液の匂いもしない。見るからに医者じゃない。長くダリのような口髭をくわえた男は黒い革のニッカーボッカーを穿いていた。体臭に混じっているのは動物の糞尿コロン。年期の入った黒い鞭を右手に持っている。
  18.  看護婦は小さな声で僕の耳元に囁いた。団長さんです、と。
  19.  悪夢だ。悪夢はまだ続いているのだ。
  20. 「どうだね、具合は?」
  21.  空々しい男の言葉。感情なんて一欠片もこもってない。ただ、男の眼光には有無を言わさない妙な威厳があった。
  22. 「はい、ほとんど痛みはありませんし、体調もいいみたいです」
  23. 「歩けるかね?」
  24.  僕は右足にそっと力を入れてみる。少し鈍い痛み。でも動かないことはなさそう。
  25. 「たぶん、大丈夫だと思います」
  26. 「それなら、本題に入るよ。君も知っていることとは思うが規則は規則だから聞いていてくれたまえ ・・・・・・ 」 軽く咳払い。
  27. 「 ・・・・・・ ここは内部と外部の紛争における負傷者を収容する施設だ。見てもらえれば分かるが、君と同じような紛争の犠牲者たちは大勢いる。通常なら社会復帰不能者は北のシューティングダストに放り込まれ外部での生活を余儀なくされるのだが、内部と外部の紛争は聖戦とみなされ特別扱いだ。チャンスが与えられる。君の才能と努力が試されるのだ。
  28.  君にはこれから選択してもらわなければならないことがある。選択肢は七つ。ピエロ、玉乗り、猛獣使い、オートバイ、空中ブランコ、曲芸、綱渡り。原則として選択は自由。どれを選んでも構わないが、団長として性格、平衡感覚、潜在的なものをも含めた運動能力、負傷の度合い、などから適性の高い選択肢を推薦しておる。それは後程、喋らせてもらうことにしよう。
  29.  ここまでの話で質問はあるかな?」
  30.  疑問だらけの話に質問も何もない。どうにでもなれ、だ。夢ならいつかは醒めるはず。僕は適当に頷いておいた。
  31. 「劣悪な場合、つまり重度の負傷により著しく運動能力が劣る場合、普通、ピエロか猛獣使いを薦めておる。だが、ピエロは危険度が少なく、人気も高いのでポストの空きがあまりない。逆に猛獣使いは危険度が高すぎて、失敗すると練習の段階で猛獣の餌となってしまう。君の場合、君の足の状態なら綱渡りをお薦めする。練習は比較的、危険が少なく、サーカスの花形なのでポストの募集や補充も多い。どうかな?本当は慎重に決めることで、規則でも通達から一週間考慮する時間が与えられておるが、何しろこの状態でな ・・・・・・ 負傷者はわんさかいるし、外部の進攻状況からいってまだまだ増えそうな勢いだ。出来るだけ早く決断を下したほうが少しでも有利になると考えたほうがいい。もちろん実力がポスト選考の基準となるわけだが、訓練所も定員ぎりぎりで、ライバルは強敵だ。みんな遊園地に残る最後の藁だから必死になって練習しておる。少しでも早く訓練に参加するほうが絶対、有利は間違いない。驚かすわけではないが、君も外の世界に放り出されるのは嫌だろう?どうだい、綱渡りでは?」
  32.  看護婦が硬く頑丈な紙を差し出した。僕に見えるように両手で紙を持っている。契約書?それには僕の知らない文字がいっぱい。三角や四角、考えうるあらゆる幾何学文様が、現代美術風にアレンジされた南半球の甲虫標本のように並んでいる。
  33.  僕は読めないことを看護婦に告げた。二人は同時に首を捻る。団長は看護婦に、記憶喪失なのか、と訊ねた。看護婦は同じような種類の文字が書かれたカルテ(たぶんカルテ?)を慌てて取り、そのような結果は出ていません、とおいたを見付けられた駄々っ子のような声で答えた。団長は小声で何かぶつぶつ。僕は看護婦に何か悪いことをしたような気分になり恐縮した。
  34.  しばらくして団長は仕方がない、と半ば怒ったような口調で看護婦にめくばせした。看護婦はふくよかな胸のポケットから一本の赤い口紅を取り出す。キャップを開ける。そして唐突に、横になったままの僕の唇に塗り始めた。何か変な気分。屈み込んだ看護婦の襟元の向こうにブラジャーが覗いている。緻密なパターンの白いレース。残念ながらその中は見えない。でも、何か得した気分。てんこもりの赤いリップ。看護婦は入念に何度も重ねる。
  35.  頃合よく、看護婦は僕の顔の上にさっきの紙をのせた。洗濯したてのようなざらざらとした感触。上から看護婦の手が撫で回している。僕の眼前が元に戻ると、紙には僕のキスマーク。契約完了。玉乗りの象が落っこちて、軽い振動と間延びした悲鳴が響いた。看護婦が最上の笑みでそれに答える。
  36.  早速、僕はテント小屋を出された。まだひとりでは覚束ない僕は団長に肩を貸してもらい、右足を引き摺りながら歩いた。猛獣の檻や宿舎らしき建物の合間をぬって。
  37.  行き着いた先は幼稚園の運動場ほどの十六輪トレーラー。銀色のジュラルミン扉を開くと無数の視線が僕を刺した。一瞬の気後れ。僕と同じ負傷者や死傷者もどきがごまんと立っている。片手のないもの、両手のないもの、頭に包帯を巻いたもの。まだそれはましな奴ら。隅の方では大型ゴミに出された亀の甲羅のように積み重ねられている。眼球の動きから死んでいないことは確か。だが、どろんとした目の輝きからは生きていることに然したる興味もなさそうな気配。
  38.  団長は僕をトレーナーに紹介した。トレーナーは団長と双子のような髭をたくわえ、やはり同じように右手には鞭を持っていた。団長は形ばかりの引継ぎ式を終えるとさっさと出ていった。扉を乱暴に閉めて。金属性の高く軋んだ音。閉鎖された空間に長く残響だけが残った。僕は室内を見回す。灯りは小さな高窓から入ってくる微かな自然光と天井に吊された投光機だけ。室内は汗と水蒸気とその他さまざまな分泌液によって、故障したサウナ室のようだ。暗くて陰気な雰囲気。お世辞にもおめでたい場所とは思えない。
  39. 「注意事項!」
  40.  トレーナーは床を鞭で叩いた。幾人かの訓練者が反射的に顔を引きつらせた。
  41. 「ひとつ、努力を惜しまないこと。ひとつ、弱肉強食、淘汰の場であること。ひとつ、最後の砦であること」
  42.  トレーナーはそこまでを選手宣誓のように、そして僕の肩に手を置きながら砕けた口調でこう付け加える。
  43. 「最初は大変だと思うが、慣れてしまうまでの辛抱だ。列の後に並んで待ちなさい。他人のを見ていれば大体のコツは把握できる。それじゃ、頑張りなさい」
  44.  僕は列の最後尾に並んだ。僕のために中断していた練習が再開される。
  45.  長さ十五メートル程のワイヤーが高さ一メートルほどのところに張られている。これで練習するのか。一番前の、両手が外側に湾曲した男が階段を上っている。ワイヤーに足を掛ける。へっぴり腰でいかにも危なそう。案の定、三歩で落ちた。
  46.  トレーナーはただ見ているだけだった。アドバイスらしきものもない。ワイヤーの終点まで行き着くことのできる奴はひとりもいない。それどころか真中辺りさえも行けない。いかにもやる気のない奴には容赦なく鞭が飛ぶ。
  47.  列は死にかけた下流のように蛇行していた。そして所々には本流に見捨てられた奴らが、澱んだ水を湛えた三日月湖のようにうずくまっていた。誰も本当にやる気のある奴はいないようだった。誰の目にも失望した灰色の影が色濃く落ちていた。
  48.  やがて僕の順番。
  49.  僕は右足を引き摺りながら階段を上り、やっとのことでワイヤーの始まりに。でも、そこで精一杯。僕は一歩も踏みだせないまま下に落ちる。右足に激痛。脳天まで稲妻が一気に走る。それと同時に今度は背中に鞭。トレーナーがもう一度、と冷淡な声で言い、僕はまた列の後まで右足を引き摺る。
  50.  その日、僕は背中を何度も打たれた。三十回までは数えていたがあとは数える気も起こらなかった。寝床はトレーラーの中。他の負傷者と一緒に雑魚寝だった。毛布も敷布団もない。固く冷たい木張りの床の上。僕は胎児の姿勢。ひりひりする背中と脈動する鈍痛を子守歌にしながら横になった。
  51.  昼間の練習では一言も喋らなかった連中だったが、消灯になるとあちこちから弱々しい囁きが聞こえた。
  52.   ・・・・・・ あいつよりはましだよな、俺には片手があるもの ・・・・・・ そうかな?両手のないほうがバランスが取りやすいって、聞いたぜ ・・・・・・ それでかな?俺が三メートルの壁がなかなか破れないのは ・・・・・・ そうさ、あいつはまだ不慣れなだけで、すぐ俺達を追い抜いて出ていくぜ ・・・・・・ それをいうなら、あの脳味噌が半分ぶっ千切れた奴だろう ・・・・・・ 奴、あれだろう?戦地で手榴弾、投げそこなって、小脳と半規管だけが助かったらしいぜ。もうここに二年と十ヵ月もいるらしいよ ・・・・・・ 猶予はあと二ヵ月しかないのかよ。奴のようにはなりたくないな。奴よりは俺なんて、まだ、ましだよな ・・・・・・ 。
  53.  あちこちで聞かれた囁きを統合し、この訓練所の大まかな仕組みを僕なりに組み立ててみた。それはこうだ。
  54.  まず、この訓練所にいられる期間が三年間と限られていること。それまでにワイヤーの終点に辿りつけばランクアップされた別の訓練所に移されること。できなければシューティングダスト。シューティングダストは遊園地の最北端にあり、辺りには動物や植物はただのひとつもなく、痩せこけた大地の上には鳥さえも飛ばないこと。ランクアップされた訓練所では実際の高さで練習を行い、それをクリアするともうひとつの訓練所に移され、そこで様々な芸を教えられること。そして三段階の試練をすべてクリアできるのは百人にひとりも満たないこと。つまり大半はシューティングダスト。
  55.  シューティングダストの向こうは外の世界。今度は外の世界の戦士として内の世界と ・・・・・・ 。ここは自分の尻尾を食らう、堂々巡りのウロボロス世界。
  56.  なんて悪夢だ!
  57.  知らぬ間に僕は眠っていた。眠りについた瞬間も覚えていない。きっと疲れていたのだろう。浅い眠りが断続的にやってき、幾時間かが過ぎていた。決して深くはならなかった。深くなるには考えることが多すぎたのだ。
  58.  僕が目を覚ましたのは深夜。一度、目を開けてしまうと、もう二度と睡魔はやって来てくれなかった。トレーラーの中はとても静かだった。みんな死んでるように眠っていた。見上げれば高窓から南中した満月の切れ端。僕の中に逃亡という二文字が不意に現われ、確かなゴシック体となって大きくなっていった。そして、僕は決意した。
  59.  閂は簡単に外れた。逃げる奴がいないから?そっと扉を開くが、微かな軋みが音となって漏れる。何人かの訓練者が目をさました模様。逃げても無駄だぜ ・・・・・・ 。嘲るような囁き声。月光に光る卑下したような眼。でも、僕は気にしない。こんなところにいるのはまっぴらだ。悪夢は自分の手で切る。僕はそう思った。
  60.  僕は外に出ると小便をし、右足をかばうようにしてでたらめに逃げた。猿や象、名前を分からないような猛獣の鳴声があちこちから聞こえ、夜空に消える道を。運よくしばらくして柵を見付ける。鉄条網が張りめぐらされた背の低い柵。僕でも何とか越えれそう。その向こうは葦の群生。そしてずっと遠くには灯りが。柵を跨ぐ時に警報装置らしいブザーと笛の音が聞こえたが、追っ手が来る気配はなかった。僕は背丈ほどもある葦の群生を掻き分け、灯りのある方向へと進んだ。
  61.  途方もなく長い時間。僕の体内時間ではとてつもなく長い時間。
  62.  灯りは昼間見たあの遊園地だった。深夜だというのにすべてのマシンは動いている。きらびやかな電飾とけたたましい歓声が遊園地の活気を不滅のものにしている。僕は人目を避けるようにそっと歩き、人気の少ないベンチに腰掛けた。とりあえずの脱力感。温かい湯槽に首まで浸かったよう。息を吐くたび、体の細胞が洗われてゆく。右足にはもう痛みもない。痺れもない。太股の付け根から先は借りてきたマネキンだ。
  63.  暗闇から人影。ルノワールの裸体画モデルような制服。婦人警官?僕の体に緊張の針金が走る。
  64. 「テロ防止のため、恐れ入りますが身分証明書の提示をお願いいたします」
  65.  婦人警官は丁寧に、事務的に、そして義務的にそう言った。
  66.  もちろんそんなものある訳がない。僕の出で立ちは漂白した囚人服みたいな服。いつのまに着ていたのだろう?職務に忠実でない警官でも職務質問しそうな風体。
  67.  僕は沈黙を守る。
  68. 「身分証明書をお願いします」
  69.  婦人警官は今度は少し権力を誇示して言う。
  70.  僕は胸ポケットから何かを取る振りをしてから、婦人警官を思いっ切り突き飛ばした。疲れのピークにあったぼくにしては最上の出来栄え。婦人警官はしこたま頭を地面にぶつけ、泡をふく。
  71.  また、僕は逃げた。
  72.  百メートルぐらい行ったところ。背後で甲高い笛の音が聞こえた。僕は復活した足の痛みを堪えつつ、速度を上げた。
  73.  観覧車、ジェットコースター、ゴーカート、ミニチュアの汽車ぽっぽ、コルク玉の射撃場、ボールの的当て、奇抜な看板の見世物小屋、覗きからくり ・・・・・・ 。様々な遊技場を横目に逃げ回った。地理も位置関係もよく分からない僕。とにかく笛の音が聞こえてくる方向とは逆に進路を取った。同じ場所を何度も、何度も通り抜け。
  74.  笛が至る所から聞こえた。ひとつかもしれないし、無数にあるかもしれなかった。追っ手の数は分からなかった。半分は僕の幻聴?本物の音はどれ?もう、どうでもよかった。
  75.  長い時間、僕は走り続けていた。体はへとへと。下半身が僕の体とは思えなくなるくらい。いつしか僕はただ笛の音に惰性で反応する僕になっていた。僕の中から意志や意識や感情と呼ばれるものが消えていた。
  76.  気が付くと、僕は回転木馬に乗っていた。
  77.  何度もリフレインを繰り返す陽気なテープ音楽。木馬は緩やかなサイン波を描き、回っている。まるで木馬は高層ビルのよう。幾重もの階層に分かれ、バベルの塔のように聳えている。天辺は見えない。夜空の彼方まで真っすぐ、そして消えている。乗客は僕だけではない。僕の分身達、同じ姿で同じ顔をしたクローンがそれぞれの木馬に乗り、僕と同じように回っている。
  78.  ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる ・・・・・・ 。
  79.  僕は手綱を両手で強く握った。落ちる心配はなさそうだし、僕のいるのは一階だからそんな必要は無用のはず。でも、自然と力が入る。何故だか分からない。本能的な衝動だ。僕の本能がここから降りたくないと言っているのだ。この木馬から。たぶん。
  80.  ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる ・・・・・・ 。
  81.  僕の知った人の声が聞こえる。友達、両親、親類、思い出せない人。姿は見えないが、確かに聞こえる。音楽の合間を縫うようにして。電飾の向こう、地面の下、満月の花咲く夜空の彼方。あちこちから聞こえる。でも、とても遠く感じる。何を言っているのだろう?口々にみな叫んでいて、よく聞き取れない。耳が痛い。集中すると、頭の中がぬるぬるしてくる。
  82.  ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる ・・・・・・ 。
  83.  何か僕が僕でないような感じがする。僕を形づくる人型がとろけて、ひとつひとつの細胞に戻るような。回っているせい?連動し、共振し、反作用し、僕の中でも回り始めたのかな?血液やリンパ液や組織液をレールにして。複雑に絡み合った無数の回転木馬達が。うねり、逆らい、ぶつかり合い、交錯し合い。
  84.  ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる ・・・・・・ 。
  85.  あぁ、やっぱり溶けてる!僕の意識が退行してる。進化を逆行してる。とてつもなく、どうしようもない深淵に落ちていく。
  86.  僕の脳髄、僕の体液。
  87.  僕の細胞、僕の核、僕の染色体、僕の遺伝子、僕のDNA、僕の螺旋構造。暗号のような迷路。
  88.  ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる ・・・・・・ 。
  89.  果てしない延長戦のような感じ。
  90.